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こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日は5分で語る作曲家シリーズ、ジャック・オッフェンバックについてお話ししたいと思います。
それでは参ります。
オッフェンバックは、フランスのパリで”オペレッタの王”と呼ばれてきた作曲家で、大小、改作含めて100作以上もの舞台作品を作曲してきました。
オペレッタとは、オペラの大作よりも少し軽めのジャンルで、日本語では”喜歌劇”とも呼ばれています。
オッフェンバックはオペレッタの元祖とも考えられており、彼がいなければ、J.シュトラウスの「こうもり」も、レハールの「メリー・ウィドウ」も生まれなかっただろうと言われています。
また、現在までつながるミュージカルのスタイルにも多大な影響を与えています。
その中で代表作と言えて今も世界中で上演されているのは、オペレッタ「天国と地獄」(こちらは日本でだけの題名で、原題は『地獄のオルフェ』)とオペラ「ホフマン物語」でしょう。
「天国と地獄」フィナーレのフレンチカンカンと呼ばれるダンス音楽は、運動会でもおなじみ。聴いたことない人はいないのではないでしょうか。
オッフェンバックの作品に見られる特徴としては、
・聴いたら誰もが踊りだしたくなる、ダンス音楽。
・パリの街の灯りを思わせる色彩
・風刺とパロディ
が挙げられます。
オッフェンバックのキャリアは、チェロの名手としてスタートしました。
チェロの(フランツ・)リストと呼ばれるほど上手かったそうです。
オッフェンバック作曲の素敵なチェロの作品も残っています。
しかしオッフェンバックの目標は、劇場で自分の作品を上演することにありました。
自費で何度か公演を打ち、それなりに成功したのですが、パリの大劇場からは一向にお呼びがかかりません。
当初の作品からオッフェンバックの性格を反映した皮肉や風刺が色合いとして打ち出されており、そういった風刺の雰囲気があまり大劇場の幹部からは気に入られなかったようです。
オッフェンバックはもともとドイツのケルン出身で、ドイツ風の発音だと、オッフェンバッハ。
ユダヤの家系に生まれました。
ユダヤ人というのは、ヨーロッパにおいては歴史上、どこか異質な人たちと見られてきたことは事実です。
この時も、ナチスの時ほどひどくないものの、彼のユダヤの出自がどこか出世の妨げとなっていた可能性もなくはないといったところです。
しかしオッフェンバックは、スペイン人エルミニーと結婚する際、ユダヤ教からカトリックに改宗しています。
そしてのちには、フランスに帰化することになります。
なかなか有名劇場に受け入れられないオッフェンバックがとった選択は、
「自分の劇場を持ち、そこで自分の作品を上演する!」ということでした。
1855年、パリのシャンゼリゼ通りにあった席数300弱の小さな劇場に目をつけて、ここでブッフ・パリジャン座としてオープンすることにします。
この頃パリでは万国博覧会が開かれるということもあって、人がたくさん内外からシャンゼリゼ通りに押し寄せてくることを見越していたオッフェンバック、その目論見は見事に当たり、劇場でのオッフェンバックの自作上演は大盛況となりました。
ブッフ座では他の作曲家の短い作品も上演していたのですが、ロッシーニ作品上演の許可を取り付ける際、ロッシーニは
「”シャンゼリゼのモーツァルト”のためなら喜んで」と承諾してくれました。
その頃のパリでは、ロマン主義の暗い雰囲気が人々から飽きられつつあった頃で、そこにモーツァルトのように明るい音楽、かつフランス的なユーモアに溢れたオッフェンバックの作品がぴったりハマって、受け入れられていったのでした。
そこからより広い劇場に場所を移して、ブッフ・パリジャン座は連日満員となっていたのですが、劇場の運営は赤字となっていました。
なぜでしょうか。
理由は単純で、収入以上の支出がかさんでいたからです。
こだわりの強いオッフェンバック、衣装や大道具にも妥協せずに多大な費用をかけていたのです。
また当時は劇場運営には政府の許可が必要で、その際には細かい規定がつけられることが常でした。
オッフェンバックには、声を出す登場キャラクターは3人まで、という規定が成されていて(のちには4人に増えた)、そのため1幕だけの短い作品しか上演することが出来ないでいました。
1858年ついにキャラクターの人数制限が取り払われ、劇場の赤字運営を覆すべく気合を入れて作曲され準備された作品が、「天国と地獄(地獄のオルフェ)」でした。
作品の詳しい解説は後日改めてご紹介しますが、とにかくこちらが大成功。
オッフェンバックの名はフランスだけでなく外国にまで広がっていったのでした。
このときオッフェンバック39歳。
1860年代は、特にオッフェンバックにとって輝かしい時代となりました。
時のフランス皇帝ナポレオン3世がオッフェンバックの作品を気に入り、オッフェンバックのフランス帰化を許可したり、レジョン・ドヌール勲章を与えたりしました。
このフランス第2帝政と呼ばれる時代がオッフェンバックの最盛期となります。
しかし、1870年に起きた普仏戦争がオッフェンバックの人生にも暗い影を落とすことになります。
普仏戦争は、フランスと当時のドイツ、プロイセンの間でおきた戦争で、オッフェンバックにとっては、現在住むフランスと故郷のドイツとで争う、身を引き裂かれるような思いがしたであろう出来事でした。
そしてこの戦争にフランスが負けたことでナポレオン3世の第2帝政が崩壊し、同時にオッフェンバックの黄金時代も終わってしまいます。
世の中の雰囲気は、オッフェンバックの皮肉が効いたユーモアを受け付けなくなってしまい、彼の作品や音楽はフランス文化退廃の象徴として、批判の対象となってしまいました。
フランスに帰化したとはいえ、生粋のフランス人たちからは、にっくきドイツ出身で大成功した鼻持ちならない作曲家、と見なされてしまい、オッフェンバックの作品はあまりヒットしなくなってしまいます。
それでもめげずに作品を発表し続けたオッフェンバックは、やがてそれまでのオペレッタの枠を超えた作品に挑みます。
それが「ホフマン物語」です。
E.T.A.ホフマンという詩人が書いた小説をもとにしたこのオペラですが、未完成のまま1880年オッフェンバックは61歳でこの世を去ってしまいます。
その後ギローという作曲家が作品を完成させて、1881年に初演されると大ヒットとなりました。
こちらも、後々詳しく解説できたらと考えております。
ユーモアやパロディに溢れたオッフェンバックの作品ですが、その音楽はとても聴きやすく楽しいものが多く、もっとリバイバル上演されればといいのにと思うのですが、
作品に描かれるユーモアが、現代の特に日本においては若干受け入れがたい、中には差別と受け取られかねないものもあったりして、また当時のパリでしか面白くないようなギャグや風刺などもあり、まあこれは時代と場所の違いと申し上げるほかないのですが、その点で難しい面もあるのかもしれません。
まずは「天国と地獄」、「ホフマン物語」の2作品を入り口として、ご興味が出たらその他の作品にも触れてみてはいかがでしょうか。
ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。
参考文献(敬称略)
アラン・ドゥコー 「パリのオッフェンバック」(梁木靖弘・訳)
ジークフリート・クラカウアー「天国と地獄」(平井 正・訳)
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