歌曲解説:シューマン「詩人の恋」①作曲までの経緯

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音声はこちら→https://stand.fm/episodes/65321bd0bd8fbe6323b81b38

こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日はドイツ歌曲を解説して参ります。
歌曲って、素敵ですよ!

今回取り上げるのは、ロベルト・シューマン作曲による連作歌曲「詩人の恋 Dichterliebe 作品48」です。

ロベルト・シューマンは、19世紀のドイツ、ロマン派の音楽を代表する作曲家で、たくさんのジャンルで素晴らしい作品を残しています。
文学にも精通していて、雑誌を創刊して批評を書くこともしていたシューマン。
その文学的素養もあり、歌曲も数多く作曲しています。
その中でも、詩人ハイネの詩に曲をつけたこの「詩人の恋」は、演奏機会も多い名作です。
16曲の歌曲が連なった連作歌曲となっているのですが、全曲を演奏してもそこまで長くなく、音楽の流れも非常にスムーズで聴きやすい作品となっています。

まずはそこまでの、シューマンの人生における足取りを追ってみましょう。


1810年6月、ライプツィヒの近郊、ツヴィッカウという町でロベルト・シューマンは生まれました。
父親は書籍商だったのですが、自らも翻訳をしたり小説を書いたりして、その自宅には数千冊の本があったそうです。

シューマンは7歳の頃からピアノを習い始め、めきめきと腕を上げていき作曲もするようになりましたが、父親の影響で詩や文学にも傾倒していきました。
16歳の時に父親が亡くなり、中等教育を終えたシューマンはライプツィヒ大学の法科に進学することを決めます。
大学が始まる前、シューマンは友人とドイツ各地を旅行しているのですが、ミュンヘンに赴いた際には、詩人ハインリヒ・ハイネと会っています。
そう、「詩人の恋」ほか多くの詩に曲をつけることになる詩人ハイネです。シューマンこの時18歳。ハイネは31歳。
ハイネは快くこの若者を迎え入れたそうです。

XKH149505 Portrait of Heinrich Heine (1797-1856) 1831 (oil on paper on canvas) by Oppenheim, Moritz Daniel (1800-82); 43×34 cm; Hamburger Kunsthalle, Hamburg, Germany; German, out of copyright

その後シューマンは法律の勉強に身が入らなくなり、母親の許可を得て当時有名なピアノ教師だったフリードリッヒ・ヴィークのもとでピアノを習い始めます。
そのヴィーク家にいたのが、運命の女性、クララでした。
クララはヴィークの娘で、幼い頃からピアノにおいて天才少女の名をほしいままにしていました。
クララ9歳の時にはモーツァルトのピアノ協奏曲を演奏してプロとしてデビューを飾っています。

その後シューマンは法律の勉強をやめて、音楽に専念することを決意します。
シューマンの母親は反対していたのですが、ヴィークが説得の手紙を母親に書いてくれて、無事に音楽の道に進むことを母親に納得してもらうことが出来ました。
こんなに御恩がある師匠のヴィークと後に裁判で争うことになろうとは…。

20歳になったシューマンは、一時ヴィーク家に下宿していました。
しかし1年弱で下宿を出て転居しています。
ヴィークのレッスンには通っていたので、さすがに下宿してずっと師匠と1つ屋根の下、は耐えられなかったのかもしれません。
シューマンはその後、右手の指を痛めてしまったため、ピアニストの道を諦めてしまいます。
指と指を拡張させる器具を使い過ぎたのが原因とも言われていて、その器具の絵を見ると、これは痛めてしまうだろうなと思わざるを得ないものとなっています。

Chiroplast, Designed to Train Pianists

1834年には仲間たちと共に音楽雑誌を創刊して、作曲家や演奏家の紹介、批評などを展開していきます。
編集などもすべてシューマンが請け負い、その仕事量は大変なものだったようです。
この雑誌では、ショパン、ベルリオーズ、リスト、メンデルスゾーンなど名だたる音楽家たちが紹介されていきました。

雑誌と並行して作曲も続けていたシューマンですが、1835年シューマン25歳のころからシューマンの中でクララの存在が大きくなっていきます。
9歳年下のクララは、この時美しく成長していました。
以前から知り合っていたシューマンとクララの関係は急速に恋愛へと傾いていきました。

クララの父親ヴィークは手塩にかけて娘を育てていましたので、まだまだ若造の不安定な作曲家、しかも自分の弟子であったシューマンとの恋愛を許すはずもありません。
ヴィークはクララを演奏旅行に出したり、クララ1人での外出を禁止したり、手紙をチェックするなどして、2人の中を徹底的に妨害します。

シューマンはなんとか合間を縫ってクララと会ったりするのですが、クララの方としてもこれまでずっと自分を保護してくれた父親から離れるという決心もできません。
疲れたクララは、一度はシューマンと別れることをさえ決意してしまいます。
しかし1837年の夏には再び想いが燃え上がり、2人はヴィークの承諾なしに手紙で婚約を交わします。

そんな状況でシューマンの音楽においては、クララへの愛と切迫感がこもった素晴らしいピアノ曲が次々と生まれました。その中にはベートーヴェンの「遥かなる恋人に」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/499https://tenore.onesize.jp/archives/503 ) からの旋律を引用した作品もあります(幻想曲・作品17など)。

1839年にはついに、ヴィークとシューマン、クララの間で裁判所での法廷闘争が繰り広げられます。
1年にも及ぶ裁判の末、1840年8月、シューマンが勝訴。ようやくクララとの結婚が法的に認められたのでした。

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結婚が決まった1840年、シューマンはたくさんの歌曲を作曲します。
その数は大変多く、この年はシューマンの”歌の年”と呼ばれているほどです。
その中に、今回の「詩人の恋」も含まれています。

この歌曲集は、先ほども出てきた詩人ハイネの詩集「歌の本」からシューマンが抜粋して並べ替えて、作曲したもので、タイトル「詩人の恋 Dichterliebe」もシューマンがつけたものです。
最初は20曲で出版される予定だったのですが、その日にちがずれ込んだこともあり、そこから4曲がカットされて、最終的に16曲の歌曲集として出版されました。
このカットされた4曲は、他の歌曲集に組み込まれるなどしています。

詳しい詩の内容は次回以降、ご紹介させていただきます。

ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。

参考文献(敬称略)

「シューマン 作曲家 人と作品シリーズ」藤本一子

「ハイネ 人と思想」一條正雄

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