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オペラ「ラ・ボエーム」解説①作曲、初演 - テノール歌手:髙梨英次郎のトークです | stand.fmプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」の、作曲初演までを解説! 名作オペラはいかにして生まれたのか、どうぞお聞きください! #オペラ #プッチーニ #ボエーム #イタリア #パリ
こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日もオペラを解説して参ります。
オペラって面白いですよ!
今回はプッチーニ作曲オペラ「ラ・ボエーム」についてお話しいたします。
プッチーニのみならず、イタリアオペラ全体を代表する作品である「ラ・ボエーム」。
それまでオペラで描かれてきた神話の世界や、王族貴族、戦争、そういったこととは無縁の、普通の若者たちによる青春ドラマです。
音楽そのものの美しさと、複雑な歴史的背景などがあまりないストーリーであることから、初演から現在に至るまで数多く上演されており、後世に多大な影響を及ぼしました。
ミュージカル「RENT」は、この「ラ・ボエーム」の設定を現代のニューヨークに置き換えて作られた作品です。
既にたくさんの解説があるこのオペラ「ラ・ボエーム」ですが、私なりの視点も踏まえて皆様にご紹介できればと思います。
それでは、作曲・初演に至るまでの経緯を見て参りましょう。
前作「マノン・レスコー」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/903 ② https://tenore.onesize.jp/archives/920 ) が大成功を収めた1893年、プッチーニは次回作の題材を探し始めます。
いまや経済的な心配が全く無くなったプッチーニは、ゆっくりじっくりと題材を検討していきます。
「マノン・レスコー」の前から、フランスのサルドゥという作家による原作の「トスカ」もオペラ化の検討がされていたのですが、プッチーニは興味を示したものの、まだ「トスカ」に取り掛かる意欲は出ませんでした。
代わりにプッチーニの目に留まったのが、フランスの作家アンリ・ミュルジェール(ミュルジェ)の「ボヘミアン生活の情景」という作品でした。
この作品は1845年ごろから雑誌に連載されたもので、ミュルジェールが貧しかったころの実体験も反映されたような小説でした。
内容は1830年頃のパリを舞台に、若くて売れない芸術家仲間たちの青春や恋愛模様がエピソード形式で描かれています。
この若い芸術家たちが”ボヘミアン”と呼ばれており、「La Boheme ラ・ボエーム」は、彼らのボヘミアン的生活をフランス語で表した言葉です。
この題材は、「マノン・レスコー」の時にも登場した、台本作家にして作曲家のレオンカヴァッロも目をつけており、1892年の時点ですでに作曲することを考えていました。
プッチーニが「ラ・ボエーム」をオペラ化する、ということがマスコミに発表されるとレオンカヴァッロは、
「その題材は俺が先に見つけて、プッチーニに勧めたものだ。その時はプッチーニが断ったからそれなら、と俺が作曲することを決めたんだ。なのに今更何を言ってんだ!」
と非難する声明を新聞に掲載しています。
実際レオンカヴァッロが作曲した「ラ・ボエーム」は、プッチーニの「ボエーム」より1年後に初演されることになったので、レオンカヴァッロとしては「俺の作品は決してプッチーニのパクりじゃない!!」と言いたかったのでしょう。
残念ながらその後世界的レパートリーとして残ったのはプッチーニの「ラ・ボエーム」のみなのですが。。
レオンカヴァッロの「ラ・ボエーム」も音源など聴けます。
プッチーニのものとは違ってマルチェッロがテノールであるなどパートの割り振りが変わっていたり、音楽がよりドラマティックでいわゆるヴェリズモオペラ的なものなので、機会があれば触れてみてください。
ちなみに、フランスの作曲家マスネもこの題材をオペラ化することを考えていたようですが、向こうは向こうの都合で取りやめになったようです。
マスネの「ボエーム」も、作曲されていたらと思うと興味深いところです。
さて今回「ラ・ボエーム」の台本を手掛けるのは、「マノン・レスコー」を最終的に完成へと導いたメンバー。
ジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカです。
その後プッチーニとの3人体制で「トスカ」「蝶々夫人」を残すことにもなります。
なのですが、ジャコーザとイッリカの台本をプッチーニは何度も突き返します。
「マノン・レスコー」以来、プッチーニはオペラにおける言葉と舞台設定の重要性を認識しており、インスピレーションが湧かない限りは何度もやり直しを台本作家たちに要求しました。
しかし台本作家の2人も、一生懸命書いたものをすぐにボツにされるので、出版社社長リコルディに対して「もう辞めたい!!」と文句を手紙に書いたり、お互いを罵倒し合う喧嘩が起きるなどしています。
ようやく完成した台本をもとに作曲が完成したのが、1895年夏のことでした。
ラストシーンを書き終えた時、プッチーニは自分が書いた音楽に感極まって涙が止まらなかったそうです。
台本をめぐって大喧嘩したジャコーザも、プッチーニのつけた音楽に触れて感動し、それからはプッチーニが台本を書き直すことを要求することに文句を言わなくなったそうです。
初演の劇場が「マノン・レスコー」の初演の地でもあるトリノ王立劇場に決まり、キャストの調整などにある程度時間がかかって、1896年2月1日、初演の幕が上がりました。
プッチーニ37歳。
指揮を振ったのは、この頃若き俊英として頭角を現していた後の巨匠アルトゥーロ・トスカニーニ。このとき28歳。
「ラ・ボエーム」の初演は、新聞などの批評では微妙な反応となりました。
曰く「この作品は聴衆の心に何の印象も残さず、オペラの歴史には残らないだろう」
この批評家の予想に反して、聴衆は熱狂し、その後何度も再演。
上演はイタリア中に広がり、この「ラ・ボエーム」は現代に至るまで世界的なレパートリーとして今も上演され続けています。
批評家に気に入られなかったのは、最初に申し上げた通りこの作品にはあまり歴史的事件やサスペンス的展開もなく、哲学的な深みがあるわけでもないという点にあるのでしょう。
この頃、イタリアでワーグナーの作品が次々上演されていて、ボエーム初演の1年前にはトスカニーニが同じくトリノでワーグナー「神々の黄昏」をイタリア初演していたこともあって、深みのある作品が偉大なオペラだと思われていた背景があるようです。
ところが観客には、そのシンプルなストーリーと、(よくない言い方ですが)ある種の俗っぽい音楽が熱狂的に受け入れられたというわけです。
そのストーリーと音楽の魅力を次回の解説で明らかにしてまいります。
ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。
<参考文献>(敬称略)
「ジャコモ・プッチーニ」ジュリアン・バッデン (大平光雄・訳)
「プッチーニ 作曲家・人と作品シリーズ」南條年章
スタンダード・オペラ鑑賞ブック [1] 「ラ・ボエーム」 南條年章
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