オペラ解説:プッチーニ「マノン・レスコー」① 成立、初演、プッチーニの半生

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オペラ「マノン・レスコー」成立とプッチーニの半生 - テノール歌手:髙梨英次郎のトークです | stand.fm
プッチーニ作曲のオペラにして最初の大ヒット作「マノン・レスコー」の成立と初演、そこに至るプッチーニの半生をご紹介! #オペラ #プッチーニ #マノンレスコー #イタリアオペラ #クラシック #クラシック音楽

こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日もオペラを解説して参ります。
オペラって面白いですよ!

今回は、プッチーニ作曲オペラ「マノン・レスコー」の作曲、初演と、そこに至るまでのプッチーニの人生についてお話しして参ります。

Giacomo Puccini 1893

いよいよプッチーニの登場です。
イタリアオペラの大巨匠ヴェルディを継ぐ存在となったプッチーニ。
プッチーニの最初の大ヒット作品となったオペラ「マノン・レスコー」と、その後の快進撃へ至るプッチーニの物語、どうぞお楽しみください。


ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日、イタリア・トスカーナ地方のルッカという町で生まれました。
プッチーニ家は代々続いた音楽家一族で、ジャコモ・プッチーニで5代目に当たります。

ジャコモの父親、ミケーレ・プッチーニもルッカの町(だけでなく北イタリア中)で大変有名な音楽家だったのですが、ジャコモが5歳の時にミケーレは病気で亡くなってしまいました。
そんな中ジャコモも幼い頃から音楽の勉強を始めて、10歳の頃少年合唱団に入ったり、14歳の頃オルガンを演奏する仕事を始め、15,6歳の頃に作曲をし始めました。

地元ルッカにあるオペラの劇場にも足しげく通っていましたが、ヴェルディの「アイーダ」を少し離れたピザの街(斜塔で有名)で鑑賞した際、大変な感銘を受けたようです。
これをきっかけにしたのでしょうか、プッチーニはミラノでオペラの勉強をしたい!という希望を持ちます。当時ミラノはイタリアで音楽を学ぶ上では最先端の街でした。
その後プッチーニは地元ルッカでの作曲コンクールで優勝し、国の奨学金や、医者である伯父の援助を得てミラノ音楽院に入学します。

Puccini young age

勉学に励みつつ、貧しいながらも学生生活をエンジョイしたプッチーニ。
このとき、仲間うち何人かで同居していたのですが、その中に同じく作曲家で、後に「カヴァレリア・ルスティカーナ」( https://tenore.onesize.jp/archives/140 ) や「友人フリッツ」( https://tenore.onesize.jp/archives/141 ) を作曲して一躍有名になるピエトロ・マスカーニもいました。
この時の思い出が後の作品「ラ・ボエーム」に影響していることは間違いありません。

プッチーニは音楽院の卒業作品としてオーケストラ作品を作曲し、その曲は大層評判が良く、ミラノの音楽界で若手作曲家としてプッチーニの名が知れ渡ることになりました。



そして卒業後、プッチーニはついにオペラの作曲に取り掛かります。
1883年プッチーニ24歳のころに、1幕もの、つまり短い作品限定で、オペラの作曲を競ういわば新人発掘コンクールが開かれることになり、プッチーニはそこへ応募して、「妖精ヴィッリ」という作品を提出します。
しかし結果は落選。
現代から見れば、プッチーニを落とすなんて、審査員に見る目がなかったのかと思ってしまいますが、一説によるとプッチーニが書いた楽譜はクセがすごく、審査員たちは何が書いてあるか判別できなかったからではないかという説があります。
ちなみに1890年、このコンクールで、プッチーニのルームメイトだったマスカーニが「カヴァレリア・ルスティカーナ」を提出して優勝することになります。

Pietro Mascagni

しかしプッチーニが社交界で「妖精ヴィッリ」をピアノで弾き語りをする機会があり、そこでこの作品は大いに評判となり、ミラノの中規模劇場で上演される運びとなりました。
1884年5月31日、プッチーニ25歳でした。
初演は観客や批評家双方から好評を受けました。
あまりに好評だったので、当時イタリアで最大の出版社であったリコルディが、「妖精ヴィッリ」の版権を獲得することになり、以後プッチーニの作品のほとんどはこのリコルディ社から出版・管理されることになりました。


そのリコルディ社のサポートも受けて2作目のオペラに取り掛かろうという時、プッチーニの私生活で色々なことが起き、なかなか大変な状況となっていきます。
最初に書いたようにプッチーニの父親はもともと、ジャコモが5歳の時に亡くなっていたのですが、1884年には母親も亡くなってしまいます。
またこの頃、ミラノでプッチーニは運命的な女性と出会い、恋に落ちます。
それがエルヴィーラ。
プッチーニより2つ歳下で、プッチーニにピアノを習っていたことがあるエルヴィーラ。
彼女はこの頃別の男性と結婚して娘と息子もいたのですが、息子の方は夫のもとへ置いたまま、娘を連れてプッチーニとミラノで同棲を始めます。
この時代のキリスト教カトリック文化圏での離婚はとても難しく、まさしく死が二人を分かつまで、離婚は不可能という状態。
このあと前の夫が亡くなるまで実に20年間、プッチーニとエルヴィーラは正式な夫婦にはなれませんでした。

こういった私生活の状況に加え、「妖精ヴィッリ」を書いた台本作家フォンターナが持ってきた台本、後の「エドガール」となる作品にプッチーニはあまりインスピレーションが湧かなかったようです。
プッチーニはフォンターナに台本の手直しを要求するのですが、フォンターナは8歳年下のプッチーニの言うことなど聞いてくれず、手直しはされませんでした。

奨学金も、伯父からの援助も滞り、リコルディ社の社長であるジュリオ・リコルディが次回作の報酬を前貸ししてくれていたおかげで何とか生活はできたのですが、それでも苦しい状態。
5年かかってようやく完成した2作目「エドガール」は1889年4月21日にミラノ・スカラ座で初演されました。プッチーニ30歳。
結果は成功、、とは言えず、リコルディから借りているお金も返しきれません。
ジュリオ・リコルディは会社の幹部から、プッチーニへの援助を打ち切るよう言われますが、プッチーニの才能を信じるジュリオはそれを認めず、
「プッチーニを切るなら、私も会社を辞める。もしプッチーニが借金を返せなかったら、私の財産から出す!」
と宣言しました。

Giulio Ricordi

プッチーニとしては、何としても3作目を大成功させなくてはなりません。


そこで目を付けた題材は、小説「マノン・レスコー」でした。
プレヴォというキリスト教の聖職者だったことがある小説家によって1731年に刊行された、大名作。
ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」(① https://tenore.onesize.jp/archives/107https://tenore.onesize.jp/archives/108 ) の原作となったデュマ・フィスの「椿姫」はこの「マノン・レスコー」を下敷きにしたと言われており、実際「椿姫」の小説の中で主人公マルグリットの形見として「マノン・レスコー」の本が登場します。
マルグリットのモデルである実在した高級娼婦(クルティザンヌ)のマリー・デュプレシも「マノン・レスコー」の愛読者です。
“ファム・ファタル”、フランス語で運命の女性を意味する言葉ですが、この物語の主人公マノンは、まさにファム・ファタル的題材の代表的キャラクターの1人です。
美しくて奔放な性格のマノンに騎士デ・グリューの運命が翻弄されていく物語。
その背景にはフランスをはじめとするヨーロッパ社会での女性の生きづらさも垣間見える、世界名作文学のひとつに数えられる「マノン・レスコー」。

この作品をオペラ化したのは、プッチーニが初めてではありません。
フランスで、1856年にオーベール、1884年にマスネがそれぞれオペラを作曲しています。
特にマスネの作品「マノン」は、フランスオペラの傑作として大いに評判をとっていました。
当然プッチーニもマスネの作品を知っていたはずで、ジュリオ・リコルディ社長も「わざわざマスネと競う感じにしなくても良くない?」と、「マノン・レスコー」を取り上げることに反対します。
しかしプッチーニは、

「俺なりの『マノン・レスコー』を作って見せます!」と譲りませんでした。

まずは台本が制作されていくのですが、これがなかなか進みません。
これまで「妖精ヴィッリ」と「エドガール」を書いてきたフォンターナとはもう仕事しない!と決めていたプッチーニ。
そこで台本を書いたのが、レオンカヴァッロ。
レオンカヴァッロは、オペラファンの皆様にはお馴染み、オペラ「道化師」でその名を知られる作曲家ですが、台本も書ける人でしたので、他の作曲家にも台本を提供することもしていました。
この時はまだ「道化師」発表前です。
しかしレオンカヴァッロが書いた台本は、プッチーニのお気に召さず却下。
プラーガという人が新たに書いた台本も、プッチーニが再三書き直しを要求して嫌気がさしたプラーガは撤退。
プラーガと共同で作業をしていたオリーヴァという人が書いた台本には、その後の形になるものもあったものの、やはりプッチーニの要求にこたえきれず撤退。

困ったリコルディ社長ジュリオが探してきたのが、ジュゼッペ・ジャコーザ。
しかしジャコーザはこの時、あまりオペラ台本制作に興味を持っておらず、代わりにジャコーザはルイージ・イッリカという人物を紹介します。
後にプッチーニの名作オペラ、「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」を生み出していくジャコーザとイッリカの登場です。
イッリカは辛抱強くプッチーニの要求に応え、後から結局ジャコーザも合流。
ようやく「マノン・レスコー」の台本の形が出来てきました。
ちなみにここまでの過程でジュリオ社長もかなり意見を述べており、本当に多くの人物が「マノン・レスコー」の台本制作にかかわったことになりました。
その後、オペラが作曲されて完成されるまで、かかった時間は3年!

オペラの初演は1893年2月1日、トリノのテアトロ・レージョ(王立劇場)で行われました。
プッチーニ34歳。
結論から言えば、初演は、超、がつくほどの大成功でした。
マスネの「マノン」とは全く違う、イタリア的情熱にあふれた「マノン・レスコー」に人々は熱狂しました。
プッチーニは一気に大人気作曲家となり、もちろん抱えていた借金も完済。

ちなみにこの8日後、1893年2月9日にはミラノで巨匠ヴェルディ最後のオペラ「ファルスタッフ」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/127https://tenore.onesize.jp/archives/128 ) が初演されることになります。
プッチーニの出世作とヴェルディの遺作が交差した瞬間です。
このあとプッチーニは、巨匠ヴェルディの後継者だ!と人々から認められていくことになるのでした。

プッチーニは3作目「マノン・レスコー」で大成功、巨匠ヴェルディも3作目の「ナブッコ」( https://tenore.onesize.jp/archives/86 ) で世界的成功を収めていて、このこともヴェルディとプッチーニ両巨匠に共通しています。

ここまでのお話が長くなりましたので、「マノン・レスコー」のストーリーはまた次回。

ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。


<参考文献>(敬称略)

「評伝 プッチーニ」ウィリアム・ウィーヴァ―、シモネッタ・プッチーニ (大平光雄・訳)

「ジャコモ・プッチーニ」ジュリアン・バッデン (大平光雄・訳)

「プッチーニ 作曲家・人と作品シリーズ」南條年章       

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