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こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日はドイツ歌曲を解説して参ります。
歌曲って、素敵ですよ!
今回取り上げるのは、ベートーヴェン作曲による歌曲「Andenken」WoO.136 です。

日本語での題名は色々なパターンがあるようで、直訳すると「記憶」や「思い出」となるのですが、ベートーヴェン事典 (平野昭/編著 土田英三郎/編著 西原稔/編著) を参考にして、こちらではこの作品を「想い」と題させていただきます。
ベートーヴェン39歳の時の作品で、初期の歌曲よりも音楽的に凝った作りにもなっていて、ぜひ皆様に触れていただきたい1曲です。
詩を書いたのは、「アデライーデ」( https://tenore.onesize.jp/archives/459 )と同じく、ドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・マティソン(1761 – 1831)です。

マティソンは村の牧師の息子として生まれました。主な仕事は教職。また後年、王立図書館の司書長にも任命されました。
そういった仕事と並行して、詩を発表して人気を博し、その詩はあのシラーにも称賛されたということです。
今回の「想い Andenken」の詩は、1802年、雑誌に掲載された後、マティソンの詩集に収められました。この詩も人気を博し、後には大詩人ゲーテがこちらをアレンジした詩を発表したほどでした。
ベートーヴェンがこの詩に作曲し始めた正確な年代はわかりませんが、1805年頃、ある女性に歌曲が2つほど捧げられたことがありました。
3年後の1808年、ベートーヴェン37、8歳の頃、この歌曲を出版する話になったのですが、ベートーヴェンは編集者に
「この歌曲の自筆譜をある女性のもとに預けているので、手元にないから、出版は待ってほしい」
というような手紙を書いています。
”ある女性”とは、ヨゼフィーネ・ダイム(旧姓:ブルンスヴィック)(1779 – 1821)のこと。
ベートーヴェンが愛した女性のうちの1人とされていて、いわゆる”不滅の恋人”の候補にもなっています。
ここで、ベートーヴェンの生涯で重要な位置を占める女性、ヨゼフィーネについてお話しましょう。

ハンガリーの貴族を父に持つヨゼフィーネは、4兄妹、長男と三姉妹のうちの二女として生まれました。
その貴族の父親は早くに亡くなってしまうのですが、4兄妹はそれぞれが音楽的才能を持って、すくすくと育っていきました。
1799年、ヨゼフィーネ20歳の時に、母親に連れられて三姉妹一緒にウィーンのベートーヴェンのもとに赴くこととなります。
母親はベートーヴェンに三姉妹のピアノレッスンを頼んだのでした。このときベートーヴェンは28歳。
この時からすでにベートーヴェンとヨゼフィーネは互いに惹かれ合っていたようです。
とはいえこの時代、音楽家の社会的地位はまだ高いものではなく、母親としては娘を、ブルンスヴィック家に恥じない貴族などに嫁がせたいという意向を持っていましたので、2人が結ばれることはありませんでした。
ヨゼフィーネはその後、かなり年が離れている47歳のダイム伯爵と結婚しました。
3人の子供に恵まれ、4人目を妊娠中の1804年、夫のダイム伯爵は病で突然この世を去ってしまいます。
未亡人となったヨゼフィーネのもとをベートーヴェンは頻繁に訪ねるようになります。
またベートーヴェンは大変情熱的な手紙を何通もヨゼフィーネに送っており、この手紙は20世紀半ばになってから見つかりました。
しかし、ヨゼフィーネの母や姉、親族たちはこの2人が結ばれることに断固反対します。
平民であるベートーヴェンと結婚すれば、ヨゼフィーネの子供たちが貴族階級ではなくなり、保護を受けられなくなるから、というのがその理由でした。
結論から言えばベートーヴェンとヨゼフィーネはとうとう結ばれず、ヨゼフィーネは後に別の貴族と再婚するのですが、そちらは到底幸せな結婚生活だっとは言えず、その後も不幸が続く厳しい人生を送ることになってしまいました。
結局1821年、ウィーンでヨゼフィーネは42年の生涯を閉じました。
さて、ヨゼフィーネに歌曲が捧げられていたというお話に戻りますが、それはヨゼフィーネが未亡人となりベートーヴェンからのアプローチを受けていた1805年ごろのこと。
1つは「希望に寄せて An die Hoffnung」と確定しているのですが、もう1曲は言及されていないので不確定でした。
今回の「想い Andenken」は、その詩の内容からしても、ベートーヴェンが抱いていたヨゼフィーネへの”想い”をこの詩が代弁しているかのようですので、もう1曲がこちらである可能性は高いと言えるでしょう。
歌曲「想い Andenken」はその後、1810年に出版されました。ベートーヴェン39歳。
ではここから、詩と音楽の内容に移って参ります。
穏やかなピアノの前奏とともに始まります。
Ich denke dein, Wenn durch den Hain Der Nachtigallen Akkorde schallen! Wann(Wenn) denkst du mein? 私は君を想う、 ナイチンゲールの合唱が 林を通り抜けて 鳴り響くとき! いつ、君は私のことを想うの?
まずは、自然の音の中でもあなたのことを想っている、と詩人は愛する人へ切々と想いを訴えます。
その愛する人は遠くにいるので、自分のことを想ってくれているのか、確かめたい気持ちでいます。
Ich denke dein Im Dämmerschein Der Abendhelle Am Schattenquelle! Wo denkst du mein? 私は君を想う、 ほのかな光の中 影に覆われた泉で 明るく輝く夕陽において! どこで君は私のことを想うの?
今度は視覚的な光のなかで、愛する人を想っています。
Ich denke dein Mit süßer Pein Mit bangem Sehnen Und heißen Tränen! Wie denkst du mein? 私は君を想う、 甘い痛みと共に、 不安な憧れと共に、 そして熱い涙と共に! 君は私のことをどう想っているの?
ここで挙げられるのは、自分の内面に起こった感情。
だんだんと詩人の心は切迫感を増しているように思えます。
O denke mein, Bis zum Verein Auf besserm Sterne! In jeder Ferne Denk ich nur dein! おお、私のことを考えて、 より良い星のもとで 結ばれる時まで! どんなに遠くにあっても 私は想っている、君のことだけを!
最後の”nur dein 君のことだけを”という個所が繰り返され、最後の最後に静かに歌われ、曲が終わります。
”より良い星のもとで”ということで、現世では自分たちは結ばれないかもしれない、とどこか予感している、とも取れる気がいたします。
いかがでしたでしょうか?
わりとストレートなラブソングという気がいたします。
詩だけを読めば、恋愛に限った愛ではないと解釈する余地があるかもしれませんが、ベートーヴェンがこの詩につけた音楽は情熱的で、爽やかでありつつもどこか色気のにじんだものであると感じます。
ベートーヴェンが何を思って、誰を想ってこの詩を選んだのか。
状況的には前述のヨゼフィーネの確率が高いように思いますが、いずれにせよ、皆さまにもぜひ聴いていただきたい1曲です。
ぜひ検索などしてみてください。
ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。
参考文献
Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Matthisson, Friedrich von“. Encyclopædia Britannica. Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press.
ベートーヴェン事典 (平野昭/編著 土田英三郎/編著 西原稔/編著)
青木やよひ「ベートーヴェンの生涯」
福島 章 「ベートーヴェンの精神分析 愛と音楽と幼児体験の心理」
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