オペラ解説:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」解説① 作曲、初演

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オペラ全曲ざっくり解説の文字起こしです。

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オペラ「ドン・ジョヴァンニ」①作曲、初演 - テノール歌手:髙梨英次郎のトークです | stand.fm
モーツァルト作曲「ドン・ジョヴァンニ」の作曲、初演までの経緯です! ロマン派芸術に多大な影響を与えた、大傑作オペラ! 個人的にモーツァルトのなかで1番好きなオペラです。 文字起こしブログはこちら↓ 参考文献(敬称略) 名作オペラブックス「ド...

こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。

本日もオペラをざっくり解説して参ります。

オペラって面白いですよ!

今回は、モーツァルト作曲オペラ「Don Giovanni ドン・ジョヴァンニ」についてお話しいたします。

大傑作「フィガロの結婚」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/133 ② https://tenore.onesize.jp/archives/134 ) に続いて、モーツァルトと台本作家ダ・ポンテによって生み出されたオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。

「ドン・ジョヴァンニ」とは、ヨーロッパ中に伝説として広まっていた、いわゆる”ドン・ファン”のイタリア語名。

全ての”ドン・ファン伝説”の中で、恐らくこのオペラが最も多くの人々のイメージとして刻まれている作品であると言えるでしょう。

喜劇の様式をまといながら、その内容と音楽は時にサスペンス、時にラブ・ロマンス、そして主人公ドン・ジョヴァンニを地獄へといざなうデモーニッシュな(悪魔的な)場面を作り出すこれまた大傑作オペラとなっています。

その後の、いわゆるロマン派とされる作曲家たちに多大な影響を与えたといわれているオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。


まずは作曲と初演の経緯をお話いたします。

前作「フィガロの結婚」が、初演の地であるウィーンでよりも、チェコのプラハで空前の大ヒットとなったことは前回述べました。

1787年1月、モーツァルトはプラハの芸術協会的なところから招待され、そのプラハの地に赴きます。

そこでいかに「フィガロ」が街中で人気となっているか、モーツァルトはまざまざと実感して、知人への手紙に書いています。

「ここでは『フィガロ』ばかり、弾かれたり吹かれたり歌われたりしている。上演されるのも『フィガロ』ばかり。

僕には大変な名誉だ!」

モーツァルトはそこでプラハのために作曲した交響曲第38番、通称『プラハ』をコンサートで指揮・演奏したりと、大歓迎を受けた後、いったんウィーンに戻ります。

恐らくその滞在中に、新作オペラをプラハで初演することを依頼されたものと思われます。

この年1787年5月に、モーツァルトにとって大切な人物が天に召されました。

父親のレオポルトです。享年67でした。

Leopold Mozart

モーツァルトが幼い頃からその音楽の才能を見極めて、息子の教育やマネージメントに人生をかけたレオポルト。

現代のわれわれがモーツァルトの音楽を楽しめるのは、レオポルトのおかげと言っても過言ではないわけですが、モーツァルト自身にとっても父親の存在は非常に大きなものでした。

その父がこの世を去ったことが、この時期に生み出された短調の(暗めの雰囲気を持った)音楽、とりわけ次回作のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に影響を与えた可能性は少なくないでしょう。

台本を書くことになったのは、前作「フィガロ」を書いた、ダ・ポンテ。

次回作は”ドン・ファン伝説”にもとづいた題材となるのですが、この題材を提案したのが、ダ・ポンテからか、プラハからの依頼を受けたモーツァルトからの発信なのか、諸説あります。

ダ・ポンテが台本作成に当たって下敷きとしたのは、同じ年1787年の2月にオペラ化されてヒットしていた「ドン・ジョヴァンニ、あるいは石の招客」という作品で、いわばそのリメイクを作ろうというわけです。

”ドン・ファン伝説”が最初に文献として登場したのは、17世紀前半スペインで戯曲(演劇の台本)として発表されたときのことで、以後様々な舞台作品やオペラの題材となってきました。

伝説の内容を大まかに申し上げると、

スペインの貴族で騎士のドン・ファンは、女性を次から次に口説いて放蕩三昧といった暮らしをしていった結果、神の怒りを買い、ドン・ファンが殺害した騎士長が石像と化して、ドン・ファンを地獄に引きずり込む、といったものです。

この題材をダ・ポンテ流に改変したものにモーツァルトが曲をつけたオペラ「ドン・ジョヴァンニ」は、1787年10月29日、プラハの国民劇場で初演されました。

モーツァルト31歳、ダ・ポンテ38歳。

プラハでの初演は、それまでの”フィガロ”人気もあって、大成功。

その後、ウィーンでも多少の変更や曲の入れ替えなどを経て1788年5月に上演されました。が、ウィーンではプラハ程の大喝采とはならず、ヒットとはなりませんでした。

それでもモーツァルトはダ・ポンテに言ったそうです。

「このオペラがウィーン人の口に合わないって?だったら彼らに理解するための時間をやろうじゃないか」

その後、このオペラは世界中で上演されるようになり、多くの作曲家たちに影響を与え続け、現代に至っております。

モーツァルトがもう少し長く生きてこの成功を知っていたら、、と妄想してしまうのは私だけではないと思います。

それでは次回、内容とストーリーについてお話し致します。

ありがとうございました。

髙梨英次郎でした。

<参考文献>(敬称略)

松田 聡「モーツァルトのオペラ 全21作品の解説」

名作オペラブックス「ドン・ジョヴァンニ」

スタンダード・オペラ鑑賞ブック [3]「ドイツ・オペラ 上」

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