オペラ解説:モーツァルト「フィガロの結婚」解説① 作曲、初演

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オペラ全曲ざっくり解説の文字起こしです。

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オペラ「フィガロの結婚」①作曲、初演 - テノール歌手:髙梨英次郎のトークです | stand.fm
モーツァルト作曲「フィガロの結婚」の作曲、初演までの経緯です! 喜劇オペラの世界的代表作は、衝撃の問題作だった! 文字起こしブログはこちら↓ 参考文献(敬称略) 名作オペラブックス「フィガロの結婚」 スタンダード・オペラ鑑賞ブック 「ドイツ...

こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。

本日もオペラをざっくり解説して参ります。

オペラって面白いですよ!

今回は、モーツァルト作曲オペラ「Le Nozze di Figaro フィガロの結婚」についてお話しいたします。

普段オペラになじみのない方が、オペラの作品名を何か一つ挙げてください、と言われた時にこの「フィガロの結婚」が出てくる可能性はかなり高いのではないでしょうか。

喜劇オペラ、オペラ・ブッファといえばこれ、というこの「フィガロの結婚」は、それまでの喜劇オペラの集大成にして異色作、それゆえに代表作となった一大芸術となっています。

モーツァルトがいかにしてこの代表作を生み出すに至ったか、その経緯をお話し致します。

1782年ウィーンで「後宮からの誘拐」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/131 ② https://tenore.onesize.jp/archives/132 )を上演したモーツァルト。

その後オペラに関しては、台本に恵まれず未完成に終わった作品が2つほどあったり、短めのジングシュピール(ドイツ語による民衆歌劇)「劇場支配人」を作曲したりしました。

ですが、やはりこの時代におけるエンタメの王様、イタリア・オペラをウィーンで成功させるという最大目標をモーツァルトはいまだ叶えられずにいました。

そんな折、モーツァルトはついに、共に大傑作を3つも作ることになる運命的な人物と出会うことになります。

その人物は、ロレンツォ・ダ・ポンテ。

Lorenzo da Ponte

イタリア生まれの詩人で台本作家のダ・ポンテは、彼を主役にした映画ができるほど、紆余曲折、波瀾万丈な人生を送った人でした。

ダ・ポンテはモーツァルトより7歳年上です。

若い頃から文才に恵まれていたダ・ポンテは、ヴェネツィアでラテン語、イタリア語、フランス語の教師をして生計を立てていて、また、カトリックの司祭でもありました。

ですが、司祭の身分でありながら放蕩的な生活を送り、ついにはある女性との間に2人も子供が出来てしまい、当時は司祭が女性と関係を持って子供ができるなど言語道断という社会でしたので、ヴェネツィアを追放されてしまいます。

その後、モーツァルトのライバル作曲家でお馴染みのサリエリと出会ったダ・ポンテは、サリエリの紹介でウィーンに移り、イタリアオペラ上演のための台本を書く仕事を与えられました。

サリエリやその他の作曲家と仕事をしていたダ・ポンテが、1785年~86年のオペラシーズンのため、次に一緒に仕事をすることになった作曲家が、モーツァルトとなったわけです。

さてどんな作品をオペラ化するか。

モーツァルトがダ・ポンテに提案したのは、フランスのボーマルシェという作家による戯曲「フィガロの結婚」のオペラ化でした。

このボーマルシェも波瀾万丈な人生を送った人物でしたが、この「フィガロの結婚」は、作品自体が非常にデンジャラスなヤバいものでした。

Jean-Marc Nattier, Portrait de Pierre-Augustin Caron de Beaumarchais (1755)

ボーマルシェはこれ以前に「セヴィリアの理髪師」を発表しています。

こちらも有名なタイトルですよね。

実はこの「セヴィリアの理髪師」の続編が「フィガロの結婚」となっています。

今では、モーツァルトより後の時代に活躍したイタリアの作曲家ロッシーニの代表作オペラとして名高い「セヴィリアの理髪師」ですが、モーツァルトが「フィガロの結婚」を上演する前、パイジエッロというイタリア人作曲家によって「セヴィリアの理髪師」は既にオペラ化されています。

ボーマルシェによる戯曲(歌無しの演劇)での「フィガロの結婚」は1784年にパリで上演され大ヒットとなりました。

ですが、その内容が貴族を痛烈に批判するものでしたので、当時のフランス国王ルイ16世がこの作品を危険視してたびたび上演禁止の通達を出しました。

折しも時代はフランス革命まであと数年というところ。

民衆による貴族階級への不満はマグマのようにふつふつとたぎり始めている頃です。

そんな時にこんな作品を上演したら危ない、とは、さすがのルイ16世でも(どちらかというとぼーっとした印象を与える王様ですが)感じ取ったようです。

こんな危険な作品をウィーンでオペラ化しようものなら、ウィーンの貴族や皇帝に睨まれそうなものです(実際に演劇版『フィガロ』の上演は、皇帝の命によりオーストリアでも禁止されていました)。

しかし台本作家ダ・ポンテが皇帝ヨーゼフ2世を何とか説得して、オペラ化の許可を取りつけることに成功しました。

その代わり、ストレートに貴族批判をしているようなセリフはかなり言葉が薄められることになりました。

ですが、モーツァルトは歌や音楽で、しっかり民衆と貴族の対立構造を表現しています。詳しくはストーリー編で。

完成したオペラは1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で初演されました。モーツァルト30歳。

ウィーンでの初演は成功をおさめましたが、他のオペラ作品との兼ね合いで、ウィーンでの上演は9回で終了しました。

しかし、その後チェコの街プラハで「フィガロ」が上演されるとこれが瞬く間に大ヒット!

モーツァルトはプラハに招かれて、大歓迎を受けて、”プラハ”という副題がついた交響曲第38番を作曲、演奏して、ついには次回作のオペラをチェコで初演する契約まで取り付けました。

その作品が、あの「ドン・ジョヴァンニ」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/135 ② https://tenore.onesize.jp/archives/136 )となります。

それでは内容とストーリー編、次回どうぞお楽しみに!

ありがとうございました。

髙梨英次郎でした。

<参考文献>(敬称略)

松田 聡「モーツァルトのオペラ 全21作品の解説」

名作オペラブックス「フィガロの結婚」

スタンダード・オペラ鑑賞ブック [3] 「ドイツ・オペラ 上」

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