オペラ解説:ヴェルディ「オテッロ」解説① 作曲、初演

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オペラ全曲ざっくり解説の文字起こしです。

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オペラ「オテッロ」解説① - テノール歌手:髙梨英次郎のトークです | stand.fm
ヴェルディ27作目「オテッロ」の作曲、初演までの経緯です。 後期の大傑作はいかにして生まれたのか? 初演のオケにはあの人がいた!? 文字起こしブログはこちら↓ 参考文献(敬称略) 小畑恒夫「ヴェルディ 人と作品シリーズ」「ヴェルディのプリマ...

こんにちは!テノール歌手の髙梨英次郎です。
本日もオペラをざっくり解説して参ります。
オペラって面白いですよ!

今回は、ヴェルディ27作目のオペラ「オテッロ」をご紹介いたします。
「アイーダ」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/122 ② https://tenore.onesize.jp/archives/123 ) 初演から実に16年間新作オペラを発表しなかったヴェルディが満を持して作り上げた、全く新しいイタリアオペラ「オテッロ」。
巨匠はまだまだ枯れてなどいませんでした!


まずは作曲、初演の経緯について参りましょう。

ヴェルディは「アイーダ」によってイタリアオペラの頂点を極め、「レクイエム」( https://tenore.onesize.jp/archives/124 ) も大成功させたことで、自分はある種の抜け殻のようになってしまった、と感じていたようです。
その後数年間、ヴェルディは作曲をしませんでした。

「なぜ私が作曲しなければいけないのですか? 作曲したところで、ワーグナーのパクりだなんだ言われて、惨めな結果しか出ませんよ。」

などと手紙に書いています。
しかし、60代になったヴェルディ、気力体力が衰えることはありませんでした。
67歳になった1879年、ようやくヴェルディは、次なるオペラの題材を何となく探し始めます。
ヴェルディが作曲に興味を再びもったことに、妻ジュゼッピーナも、出版社社長リコルディなど周りの人々も気づきましたが、ことは慎重に運ばなくてはなりません。
気難しいマエストロ・ヴェルディに催促をしたり、怒らせたりしようものなら、途端にヴェルディは興味を失ってしまいます。
出版社リコルディとしては、まだまだ元気なヴェルディ先生に新作を発表してもらって、たんまり稼ぎたいところです。
そこで、ヴェルディがジュゼッピーナと共にミラノを訪れた際、リコルディは夫婦を食事に招待しました。
そこには友人の指揮者ファッチョも同席させて、まずは世間話から、遠回し遠回しに音楽の話をしていきます。
もちろんジュゼッピーナには事前に連絡済みです。
そこでファッチョが話し始めます。
「私の親友ボーイト君が、シェイクスピアの「オセロー」をオペラ化しようと、台本を書いているようです」
ここで名前が挙がったボーイトが、ヴェルディの作曲魂に再び火をつけることになる人物です。

Arrigo Boito

アッリーゴ・ボーイトはヴェルディより30近く年下の、詩人であり台本作家、評論家兼、作曲家でした。
ボーイトが20代の頃、若気の至りからか、それまでのイタリアオペラを「古い!」と批判する文章を書いて発表したことがありました。
古いとされた中には、誰がどう聞いてもヴェルディのことも入っています。
これを目にしたヴェルディは気を悪くしましたが、この頃には、もう15年も前の昔のことでしたので、ほぼ水に流されていました。
またボーイト自身が台本も作曲もした第1作「メフィスト―フェレ」が1868年にミラノ・スカラ座で初演されましたが、これが歴史に残る大失敗でした。
数年後かなりの改訂を施してボローニャで再演されてようやく成功しました。
そんなこともあって、実際に作曲することの大変さもボーイトはわかり、この頃には改めてヴェルディの凄さを認識して尊敬するようになっていました。

食事会で、ボーイトが「オセロー」の台本を書いているという話を聞いたヴェルディは、興味を示します。
もともとシェイクスピアは、ヴェルディが大変に愛好して、各作品を熟読していた作家です。
「オセロー」はシェイクスピア四大悲劇の一つ。
あとの3つは「マクベス」「ハムレット」「リア王」ですね。
シェイクスピアの作品ではこれ以前に「マクベス」( https://tenore.onesize.jp/archives/93 ) がオペラ化されたのみで、他には「リア王」をオペラ化しようと計画して、その台本まで仕上がっていたのですが、完成することはありませんでした。
大好きなシェイクスピアをオペラ化する以上、中途半端なものを世に出したくはない。
作るなら「アイーダ」までの作品を越えるものでなくてはならない。

ヴェルディは慎重でした。
翌1880年には「オテッロ」(英語で発音した「オセロー」のイタリア語読み)の台本が完成するのですが、ヴェルディはなかなか作曲に着手しようとしません。
出版社リコルディはかつての「リア王」のようにまたお蔵入りになってはかなわん、とヤキモキしていました。
そこで、「オテッロ」の前にヴェルディとボーイトでの共同作業を、予行練習的にしてみたらどうか、と提案します。
それが、21作目「シモン・ボッカネグラ」( ① https://tenore.onesize.jp/archives/111 ② https://tenore.onesize.jp/archives/113 ) の改訂でした。
「シモン」の項で詳しく述べていますが、スカラ座での改定版上演は1881年3月に行われ、これが見事に成功し、二人のコラボレーションは幸先の良いスタートを迎えました。

Boito & Verdi

それでもヴェルディは「オテッロ」の作曲に取り掛かりません。
ですが、ボーイトと何回も手紙を交わし、「オテッロ」の台本に修正を加えていきます。
その間の1883年2月には、ヴェルディと同い年の大天才ワーグナーが死去したとの報せを受け、ヴェルディは心から哀悼の意を表しています。
そして1884年3月ごろからついにヴェルディは「オテッロ」の作曲を始めます。すでにヴェルディは70歳を迎えていました。
その作曲ペースはかなりゆっくりとしたもので、1年に2作オペラを作り続けていたころからは考えられない遅さでした。
書いてはやめ、農場経営をしたりしてはまた書き、オーケストレーションにも相当な時間を費やし、全曲の楽譜が完成したのはなんと1886年12月のことでした。
そしてただちに、スカラ座での初演のための準備が進められていきます。
稽古において、ひとつ有名なエピソードがあります。
オテッロ役を初演するタマーニョは、大変な声量とドラマティックな声を持った素晴らしいテノールだったのですが、最後の死に際での演技がなかなかうまくできませんでした。

Tamagno

しびれを切らしたヴェルディはタマーニョをどかせて、なんと自ら動いて演技指導を始めます。
自分の胸に短剣を突き刺して舞台上段から転げ落ち、じっと動かなくなったヴェルディを見て周りの人々はギョッとして、
「マエストロ!?」と駆け寄ろうとしますが、その瞬間ヴェルディはすっくと立ちあがり、呆然とするタマーニョに
「こうやってオテッロは死ぬんだよ」
と言ったそうです。

また、「オテッロ」初演を演奏するスカラ座オーケストラの中に、若干20歳でチェロを演奏する若者がいました。

その若者は後に、20世紀イタリアを代表する大指揮者となります。

その名は、アルトゥーロ・トスカニーニでした。

Toscanini (young)

そしてついに1887年2月5日、ミラノのスカラ座で16年ぶりの新作オペラ「オテッロ」初演の幕が上がります。ヴェルディ73歳。ボーイト44歳。
初演には全ヨーロッパから人々が詰めかけ、ヴェルディ史上最大と言っていいほどの大成功となりました。
ミラノの街は夜が明けるまでお祭り騒ぎとなったそうです。

それでは「オテッロ」の内容とストーリー、は、また次回お送りいたします。

ありがとうございました。
髙梨英次郎でした。


<参考文献(敬称略)>

小畑恒夫「ヴェルディ 人と作品シリーズ」「ヴェルディのプリマ・ドンナたち」

ジュゼッペ・タロッツィ「評伝 ヴェルディ」小畑恒夫・訳

永竹由幸「ヴェルディのオペラ」

髙崎保男「ヴェルディ 全オペラ解説」

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